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屋形船の歴史

屋形船の歴史 現在までの屋形船の歴史をご紹介します。

江戸時代以前

池や川での舟遊びは古くから親しまれていました。日本書紀には402年(古墳時代)に履中天皇(仁徳天皇の子)が両枝船(ふたまたふね)で遊宴を楽しんだという記述が残っています。

平安時代になると貴族の間で舟遊びが成熟し、「龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)」という、船首が龍や鷁(げき、想像上の鳥)の形をした舟に楽人を乗せて音楽を楽しんだり、「詩歌」「吟詠」「舞楽」も行われました。この龍頭鷁首は一艘に10~20人が乗れる大きさだったそうです。しかし、この時の舟は、使い方は今の屋形船と同じですが、形は違う物のようです。 平安時代以降も、このような優雅な舟遊びは、高貴な人々の間で受け継がれていきました。

一方、「屋形船」という言葉は江戸時代以前からありましたが、舟遊びの船を指すものではありませんでした。「屋形」とは、牛車や船に付けた家の形をした覆いの事です。「屋形の付いた船」という意味では、かなり古くからあり、 弥生時代の土器に描かれていたり、万葉集の歌(巻16・3888)に残されています。

さて、では「舟遊び」を「屋形船」でするようになったのは、いつ頃でしょう。実は定かではありません。ただ、それを思わせる、こんな話があります。
室町時代、特別な大名だけに与えられる「屋形号」という称号がありました。屋形号を持つ大名は「御屋形様(おやかたさま)」と呼ばれ、 御屋形様の乗る豪華な船は「屋形船」と呼ばれたと言います。又、御屋形様の住む邸宅(館)のように豪華な館(屋形)が付いた船だから、「屋形船」という説もあります。特別な大名が屋形船で酒宴を開いていた事は充分に考えられますね。

江戸時代~

江戸時代初頭まで、舟遊びは御座船(ござぶね)を所有する将軍や大名だけが楽しめるものでした。しかし、太平の世が続き、河川の整備が進むと、裕福な商人なども舟遊びを楽しむようになりました。 江戸では夏になると大川(隅田川)に涼み舟が集まり、大いに賑わいました。今と同じ意味での「屋形船」という言葉は、この頃には一般に定着しています。

船もだんだんと大きくなり、17世紀中頃には長さが26間(約47m)、船頭が18人乗りの屋形船もあったそうです。又、座敷が9部屋に台所が1つあるので熊市丸(九間一丸)や、座敷8部屋と台所で山市丸(八間一丸)という大屋形船もありました。 大きさだけでなく、漆であざやかな朱塗りにしたり、金銅の金具を付けてきらびやかに装飾し、贅を競ったそうです。しかし17世紀後半以降は、幕府が度々の倹約令を出し、屋形船の大きさや船数に制限をつけたため、船は小型化し、質素なものとなりました。

町人たちはと言うと、船宿や料理屋が所有する「屋根舟」(やねぶね)で舟遊びを楽しみました。屋根舟は日除け船とも呼ばれ、その名の通り、小型の船に四本柱と屋根だけを付けたものです。 武士以外は障子をたてる事を禁じられていたため簾(すだれ)掛けで、船頭は一人、竿ではなく櫓でこいでいたそうです。質素でも、庶民が楽しめる粋で風流な遊びだったのでしょうね。 18世紀後半には50~60艘だった屋根舟が、19世紀初頭には500~600艘にもなったそうです。

「両国の川開き」で行われる花火(現在の隅田川花火大会)の時には、こうした屋根舟を中心に、たくさんの船が集まりました。特に明治時代は花火の技術が格段に進歩したため見物人の数も増え、 500艘を超える船で川面が埋まったという記録もあります。
こうして貴人から庶民まで、幅広い人たちが楽しむようになった舟遊びは、昭和初期まで続いていきます。浮世絵や落語などの世界には、今でもその様子が残されています。

現代

多くの人々に親しまれた屋形船でしたが、太平洋戦争を転機に衰退していきます。戦時下にあっては人々に屋形船を楽しむ余裕などなく、その姿は消えていきました。 戦後の高度成長期(1950年代半ば~1973年)、日本は急速な復興をとげましたが、反面、水質汚染、コンクリート護岸化により、水辺は風流なものではなくなり、屋形船が息を吹き返すことはありませんでした。

では灯の消えた屋形船は、どのように復活していったのでしょう。
それは、現在ある船宿の歴史から振り返ってみます。 まず、すべての船宿が元から屋形船業を営んでいた訳ではありません。多くは海苔の養殖や漁業、釣り船業が始まりです。1950年頃の東京湾には魚が多く棲み、釣果もよかったので、釣り船はたくさんのお客様でにぎわっていました。 しかし、乱獲や高度成長期の水質汚染、埋立て工事など、さまざまな環境の変化から、魚の数はだんだんと減っていきました。

釣りに陰りの見えた1970年代後半、一軒の老舗の船宿さんが木造の屋形船を復活させました。数年を経て、いくつかの釣り宿さんが釣り船を改装する形で屋形船を始めました。 やがて釣り船がFRP(強化プラスチック)で作られていたところから、FRP製の屋形船も作られるようになりました。こうして1980年代半ばには東京各地の釣り宿が屋形船業も兼業するようになったのです。


バブル期と相まって、豪華で高級な遊びの屋形船は、現代の大名遊びさながら人気となりました。一時、殺風景だった東京湾にも、ディズニーランド、レインボーブリッジ、お台場など、新しいスポットが誕生し、見どころが増え、 屋形船の復活はゆるぎないものとなったのです。

現在の屋形船には、エアコン、カラオケ、水洗トイレなどの設備が整えられ、新しい標準スタイルが確立しました。 そして今でも、展望デッキ、掘りごたつ式座席、イス席、100人超の大型船、喫煙ルーム、和食以外の料理など、船宿の企業努力によって、屋形船はさらなる進化を続けています。